2013年4月のアーカイブ

至高の執筆術(レジュメ・ブログ・書籍の原稿とどう向き合うべきか)

GWの合間ではありますが、今日は今月2回目の雑サロ(第88回ビジネス雑談サロン)を開催しました。
タイトルは「至高の執筆術(レジュメ・ブログ・書籍の原稿とどう向き合うべきか)
いやあ、タイトルだけ聞くと、すごいセミナーのように見えますが、単なる

「雑談」

をしただけです。いつものことながら笑

  

1.書籍を執筆・刊行する意図と目的

いろいろテーマが出たのですが、最初に話しはじめたのは、

「書籍を執筆・刊行する意図と目的」

についてでした。
現在の印税率は条件にもよりますが、5〜10%というのが実情です。
たとえば、1,000円のビジネス書を執筆した場合、
それが初回で5,000部刷られるのであれば、印税は、

1,000円✕5,000部✕5〜10%=25万〜50万円

という計算になります。

「おお! すごい!!!」

と思われた方もいるでしょうが、執筆戦略にかかる労力や手間暇を考えると、代替戦略は山のようにあります。
執筆だけがすべてではないということですね。

今日集まった友人やそのまた友人の中には、1万部、10万部というすごい本を書いている方もいらっしゃいますが、そうなれば話は別ですが、なかなか、印税だけで食っていくのはしんどいものです。

では、なぜ、そうまでして執筆するのかというと…

① 販売促進
本を書くことにより、多くの人に自分という存在を知ってもらえることを狙った場合です。
セルフ・ブランド・マネジメント(SBM)の一貫である…という意見も飛び出しました。
有名な出版社から出せれば、それは自分のブランドを高めることにもつながるでしょうし、一方、Kindleで出版すれば、ローコストで自分の名前と商品(アイディア・サービス・ノウハウ等)を広く、世間の人々に知らしめることができます。
売上やら利益は二の次…というのであれば、これも1つの執筆の意義になります。

② 普及啓発
今日は『ブラックジャックによろしく』の事例がでましたが、この作品、著者が著作物の二次使用を自由化したので、ニュースになった作品です。
『ブラックジャックによろしく』の作者のように、印税や経済的権益が目的ではなく、自分の描いた(書いた)ものを、より多くの方に見てほしい、読んでほしいということを目的とした執筆もあってしかるべきでしょう。
実際、多くの方は、ブログやTwitterでいろいろなことを書き込まれていますが、必ずしも経済的目的に基づくものではありません。
書籍もそれらと区別する必要がない時代になっているのかもしれませんね。
講演やセミナーを開催している方の場合、地方や遠方の方に対してはなかなか満足なサービスができないものです。それを補うために書籍を利用する場合もありますよね。

③ 自らの勉強
これは私が出した意見です。駆け出しのコンサルタントの頃、ある先生に、

「基本書や入門書を書く機会は大切にせよ」

と言われたことがあります。
こういった一種、

「つまらなく感じる仕事」

こそ、自分を高めるチャンスなのです。
財務でも法務でもマーケティングでも営業でも、

「基本書・入門書・教科書」

を書くとなれば、相当に勉強しなければならなくなります。
関連書籍はヤマのように必要になりますし、場合によっては、関係者に取材もしなければならなくなります。新聞記事や雑誌記事にも目を通す必要があります。判例も調べなくてはならないでしょう。

この過程で、自分が成長することができます。

「本を読めば勉強できるじゃないか」

という方もいらっしゃるでしょうが、それは違います。
少なくとも、他人(読者)のために商業出版する以上、漠然と眺めるように本を読むのとは、

「勉強の密度」

が違います。本を書くために行う読書量・勉強量はすごいものになります。
執筆行為自体による確実な記憶化、細かい概念の差異についての判別力…読んだだけの人とは雲泥の差が生じます。

私はこれまで、資格の学校のテキストはヤマのように執筆して参りましたが、

「マーケティング」
「HRM」
「ビジネス法務」

についての基本は、

「書くことで学んだ」

と申し上げて、嘘はありません(「基本」ですよ、学んだのは。全部じゃありません)。プレゼンテーションや営業は、必ずしも書籍を書けば学べるというものではありませんが、多くの知識は、「書くこと」によって、自らの中でも

「形式知化」

していくのだと思います。
本日来てくださった友人のうちのおひとりが、いみじくも、

「書いてみると自分のノウハウの抜けやオチがよくわかる」

というようなことをおっしゃっていましたが、だからこそ、それを埋めるための勉強を強制的にしなくてはならなくなるわけですね。

これらは、いわば、

「自分のための執筆」

になりますが、執筆動機としては非常に大きいと思います。

2.執筆という業務のハードルを下げる工夫

次に、執筆におけるハードルの高さについての議論になりました。最初のうちは、

「よし、書こう!」

と思うのに、そのうち、

「ううむ、筆が進まない」

となってしまうことはよくあることです。

得意分野や自分のノウハウであっても、200ページ(ビジネス書1冊)書くのって、そうとうハードルが高いのですよね。

これを楽にする方法の1つに

「共著」

があります。先ほど触れた

「販売促進」

目的の執筆であるなら、単著でなくても、十分に効果はありますから、

「共著」

という方法も当然出てきます。今日もそういうご意見が出ました。

また、「共著」と似ている手法ですが、

「ゴースト・ライター」

を起用するというのも1つの方法です。

「出版プロデューサー」

に力を借りるという方法もあります(出版プロデューサーとゴーストライターと共著も明確な境目はありませんが)。

共著方式をとったり、ゴースト・ライター方式をとったりする場合には、自分と共同で書いてくれる、あるいは自分の代わりに書いてくれる執筆者の

「実力」

が問題になります。
ヘタッピーに担当させれば、結局、元の木阿弥。
自分で一から修正しなければならなくなります。この作業はとてつもなく厄介です。一から書いたほうが楽な場合も少なくありません。

実力のある共著者や優秀なゴーストライターを得るためには、方法は3つしかありません。

① オーディションのしくみを持つ
② 教育訓練(トレーニング)の仕組みを持つ
③ 出版プロデューサーに①②を任せる

①は世の中にたくさんいるであろう腕のいい執筆者と出会うためのコンテストを実施するという方法です。②はもともと知っている人間が自分と同じようなレベルで書けるようになるまで教え、育てるという方法です。
③は①②を外注してしまうという方法です。もっとも、今度は、優秀な出版プロデューサーを探すという手間暇が発生します。

いずれにしても、共著なり、ゴーストライターの起用なりであっても、また、出版プロデューサーを採用するのであっても、尻尾津の割り振りさえすれば、自動的に書籍ができあがるということは一切ありません。
相当な調整コストが発生することは間違いないのです。

また、共著の場合、自分の勉強」の機会と考えると、その効果は半減します。
自分のパートは熱心に調査し、執筆するでしょうが、共同執筆者のパートについては、それほど勉強になりません。
もちろん一定の勉強にはなるのですが、自分のパートほど時間を割くことはないでしょうから、増加する知識量は限定的なものになります。

3.効率的に書籍を出版するプロセス

できるだけ効率的に書籍を出すにはどういうプロセスを経るべきだろうか…という話題も出ました。
こんな

「むしのいい方法」

はもちろん存在しません笑

しかし、ある程度、システマチックに事を進めることも可能です。

① 予め、共同執筆者にトレーニングを施しておく
② リーダー執筆者が台割・構成を作り上げる
③ 台割・構成について、出版社・共同執筆者と調整し、本質的に当該書籍の意図を理解してもらう
④ リーダーがサンプル原稿を1章分作成し、出版社の同意を取り、共同執筆者に体感的に理解してもらう
⑤ リーダーが共同執筆者を監督しながら、作業を命じる
⑥ 相互校正を繰り返しながら、仕上げていく

…とまあ、こんな感じでしょうか。
それでも、うまくいかないこともありますし、絶対的な方法があるかどうかすら、わかりません。
今後の研究課題となりますね。

執筆のための時間づくりもいろいろなアイディアが飛び出しました。
友人の一人が

「飛行機の中」

をあげていましたが、同感ですね。
飛行機の中は、メールも飛んで来なければ、電話もかかってきません。上司も部下も同僚も顧客もいないわけであり、完全な自分の時間とすることができます。

あとは、スキマ時間しかないでしょうね。
ドラッカーはまとまった時間が重要だ…といっていますが、さすがに、3週間とか1ヶ月とかを執筆の時間として専念できる人はいませんからね。テトリス型時間勘理論者である私も、ここは自説を曲げ(曲げざるを得ませんよね)、執筆におけるスキマ時間の有効性に一票投じたいと思います。
それでも、3日程度まとまった時間がとれるならば、耐久レースのつもりで

「3日間でどれくらい書けるか」

に挑戦してみてもいいと思います。何事も自分の限界を知っておくことは大切です。

私の場合、ほぼ頭のなかに書くべき内容が固まっている場合(途中で一切の調べ物をしなくていい場合)であれば、1日(12時間換算)の執筆速度は、概ねA4判用紙に換算しておよそ60ページです。

講演のネタを文字化していきますと、図表込みで、1日の講演で100ページくらいになります。『コミュニケーション・マーケティング』(同文館出版)の後半部分100ページは、元々講演原稿として存在したPowerPointおよそ100枚を図表化し、これで約40ページ分。残りの文章原稿60ページは、1日で初稿を書き上げました。
それは、何度もお話している内容であり(「動機付けの7つの湖」モデル)、時間さえあれば、書くことは十分に可能だったからです。

いささか陳腐で恐縮ですが、いまや、パタンと蓋をひらけば、ノートパソコンでいつでも書くことができる時代です。
万年筆やボールペンは手元になくてもよいのですが、キーボード付きの何らかのガジェットは手元にないと話になりません。
会社のパソコンとつながっていようがいまいが、大きな問題ではなく、気づいたことをすぐに

「文字化」

できる時代なのだから、それを怠るのはもったいないと思うわけです。

執筆のハードルを低くするもう1つの方法として、

「予め書いておく」

ということを、私は挙げさせておきました。

何でもかんでも、気づいたことやアイディアになりそうなことは、FacebookでもTwitterでもYouTube(この場合は映像ですが)、ブログでも、テキストエディットでも…とにかく、書いておく…
その蓄積があると、執筆は楽になります。

たとえば、私がクライアントから

「新しいプロモーション・ノウハウについての研修テキストをつくってほしい」

というご要望を頂いたら、真っ先に検索するのは、Googleでも、日経テレコンでも、自炊書籍でもなく、過去に書いた自分のブログ・Facebook・Twitterの書き込みと過去にアップロードしたYouTube動画です。
これらの中にかなりのヒントと素材が含まれている可能性が高いのです。
SNSは多くの場合、自らの知的資産の

「貯金箱」

としての役割を果たしてくれているのです。
それも、高額の積立ではなく。

「500円貯金」

のようなものです。

では、私がいつ

「知識の500円貯金」

をしているのか…というと何らかの刺激を受けた後です。

たとえば、

① 顧客のカウンセリングや相談を受けた後
② クライアントやパートナーと一杯やっている時
③ 講演やセミナー、ワークショップを担当した後
④ VTR収録終了後
⑤ 雑サロや「名著を読む会」に出席した後

です。
できるだけ、忘れてしまわないように、学んだことや気づいたことを書き留めておく。
まとまれば、Facebookやブログに載せたりもします。
この原稿もその一例です。

昔から、

「芸は身を助ける」

とはよく申しますが、私流に申し上げれば、

「知識の500円貯金は執筆を助ける」

ということになります。
ボーイスカウトではありませんが、

「備えよ常に!」

がスローガンとして適しています。

私は今のところ、自らのブログやTwitterを商業出版に転用しようとは思っていません。
しかし、これらの場所に掲げた知識や情報を読み返していけば、十分に役立つ情報をピックアップできます。

この他、全部書いてから出版社と調整するのではなく、1章できたら見てもらう、その間に2章を書き上げ、戻ってきた1章に対する意見・感想に従い、3章を書き上げ…という方法を紹介されていた方もありました。
出版社によっては、

「全体が見たいので、全部できてから送ってください」

というところもあるのですが、実はこれだとめちゃめちゃ時間がかかるのですよね。
生産工学でいうところの

「停滞」

が長くなります。ですから、生産のリードタイム…この場合、執筆のリードタイムですが…が最長になります。

「書くのに1年もかかっちゃった」

というのは、よくある話ですが、この場合、上記のような

「全部書いてから調整型」

の執筆となっている可能性が大なのです。
リードタイムを短くしたいなら、

「一部書いては都度調整型」

の執筆がお勧めです。
自分の書いた原稿がだんだん書籍に近づいていく姿(たとえば、ゲラ)を早くみることができますから、それだけでも、自らを動機づけることができるのです。

4.セルフ・ブランド・マネジメントと執筆活動

セルフ・ブランド・マネジメント(SBM)との絡みについても話題になりました。

① SBMが確立してから、それに基づき、Facebookやブログを書いたり、書籍を書くべきか。

それとも、

② Facebookやブログを書きながら、SBMを確立していくか。

どちらだろうか? という命題です。
明確な答えは出ませんでしたが、今後、Kindleなどを通じて、出版のハードルがぐんぐん低くなるのであれば、SBMの確立のほうが優先するだろうという意見がでました。
これについては私も全くの同感。

「有名な出版社から出ているからまともなビジネス書だろう」

という判断ができない書籍が増える以上、

「著者ってどんな人なんだろう」

という疑問が現在以上に大きくなるからだという意見も出ました。
著者のセルフ・ブランド・マネジメントが書籍の成否に与える影響は、今後ますます強くなることになるでしょう。

5.Kindle時代の出版のあり方

Kindle時代の出版社の役割については、以前の雑サロでもテーマとしてあげたことがありました(「革命の旗手 その名はKindle」)。
その際に、私が感じたのは、玉石混交で電子出版物があふれかえった後に、

「やはり、出版のプロの目にかなった書籍のほうが価値があるな」

という振り子のゆり戻し現象のようなものが起きるのではないかということでした。
一時的に

「出版社を通さずに出版できる」

ような風潮が世の中で大きくなった後に、その逆の動きが出てくるように思えてならないのです。

ですから、世の中の出版社は、それを踏まえ、

「目利き」

としての実力を研ぎ澄ませておくのが上策だと思います。

6.レジュメの執筆方法

さてさて。
本日は出版だけではなく、レジュメの作成方法についても情報交換がなされました。
これらも立派な執筆活動であり、むしろ、講演やセミナー、なんらかのプレゼンテーション等の知的な仕事に携わっている方の場合、なんらかのレジュメを作成しなければならないことは多いからです。
本日参加のメンバーの間では、

「キラー・コンテンツが思いついたらそこからが仕事」

という意見が多かったと思います。

大げさに申し上げれば、講演用のレジュメを1から創る作業の場合、作業時間の90%は、

「キラー・コンテンツを何にするか」

を決定するまでの時間となります。
あの人はなにもしないでサボっているように見える…という時間が、実は立派な作業時間なのです。

「キラーコンテンツが見つかった」

という状態を言い換えると、

「神様が降りてきた」

となります。神が降りてこないと、PowerPointなど何の役にも立たないのです。

だれでも知っていることを延々と話す講演やプレゼンを時々見聞きすることがありますが、これは

「キラーコンテンツが見つかっていない状態」

にも拘わらず、ただ、スライド資料をつくり、スクリプトを作って、体裁を整えた結果です。
見掛け倒しとはこのことです。

「神様が降りてこない状態」

では、おもしろい話などできませんし、ましてや、誰もが満足するレジュメなど作れっこないわけです。

では、どうしたら、キラー・コンテンツを思いつくか…。

こうなると、思考法・発想法の話になってしまいますが、今日のキーワードは

「温め」

「晒し」

でした。
「温め」とは、自分のアイディアについてしばらく寝かせておいてから、再度考えてみるというものです。
客観的に自らのアイディアを見つめなおすことができるというものです。
私は最近、「神様が降りてくる」のは、明け方、ぼんやりと寝ている時点ということが多くなりました。当該テーマについて、考えて、考えて、考えぬいて、ボーとしている時に、アイディアが途端にひらめく! こんな機会がずっと続いています。完全に忘れることができないからこそ、「温め」が起こり、よい結果が生まれているようです。
先日、友人の結婚披露宴の余興として5分ほどのプレゼンを考えたのですが、この時もなかなかアイディアが思いつかず、うつらうつらしている時に突然、「!」とひらめきが起こったのです。あとはストーリーをまとめ、一気呵成にスライドにし、音入れまで済ませました。完成したのは、披露宴当日の昼でしたから、冷や汗モノでした。

一方の「晒し」とは、自分のアイディアを多くの方に見ていただき、感想や意見を言っていただく…というものです。
「温め」が自力本願だとすると、「晒し」は他力本願です。
他の方の知恵やセンスをお借りして、自らのアイディアの形を整えていく作業工程です。

「晒し」は1回で終える必要はありません。何度も何度もいろいろな人晒したほうが、多角的に自分のアイディアを見直すことができます。
たとえば、今週の雑サロで8人のメンバーに自分のアイディアを伝えた後、頂いた意見ももとに修正し、翌週の雑サロで別の8人にその修正案を見ていただく…これを繰り返すといった方法です。

どんなに多くの発想法や思考法を勉強しても、結局のところ、個人レベルでの発想法や思考法は、所詮「集合知」には勝てません。
多くの方にアイディアを晒す「勇気」と「場」こそが、大切なのではないかと感じます。
勇気だけでも場だけでも、自分のアイディアというのは、うまく晒せませんからね。

FacebookをはじめとするSNSのすばらしいのは、自らのアイディアを晒すことにより、まだお会いしたこともない友人から感想や意見をもらえる点です。
こうやって改めて考えてみると、物理的な距離はずいぶんと縮んだなあ…と思います。
物理的に距離が離れていても「協業」が本質的に可能になる時代ももうまもなくやってきますね。

レジュメを作る場合には、

「ターゲットは誰か」

を考えることも重要ですね。
私の場合、講演など、事前に受講者の方々がわかっている場合には、担当部署(人事部や営業本部)にお願いして、事前アンケートをとっておきます(「事前アンケート」の効果については、以前にも、当ブログで「MDL(多次元的能力開発)」の項で述べています)。
それにしたがって、企画を修正し、作成するレジュメのトーンやスタイルを変える…ここまで手をかければ、講演を失敗する可能性はかなり小さくできます。

ところで、本日も、

「レジュメを配るか」

という問題が提起されましたが、これについては、

① 講義やプレゼン用のスライドは、写真や図表中心とし、文字は極力少なくなるよう作成する
② 当日は、スライドは配らず、目をプレゼンターと前方スライドに釘付けになるようにする
③ 「テキスト(教科書)にならないじゃないか」という不満に答えるべく、講演の最後には、「今日のレビュー」として、講演録にあたる文字資料(スライド資料とは別。「本日のサマリー」のようなもの)を用意し、配布する

という方法を紹介しました。
私にかぎらず、多くの方がやっている手法でしょうね。


さてさて。
というわけで、本日の昼のサロン、非常に多くのことを学ばせて頂きました。
このテーマ。
また、後日やりたいですね。

2013年4月30日

組織改革の3要素

このところ、組織変革に関する案件を担当することが増えています。
テーマはまさに「ゆでガエルシンドロームからの脱出」です。

最初は全く別の問題に感じても、よく話を伺うと、どれも問題の根幹はおそろしく似ていることに気づきます。

この時、私がいつも思い出すのが、

「燃焼の3要素」

です。
つまり、

① 可燃性物質
② 酸素
③ 発火点(温度)

です。

組織改革の場合も、ほぼこの3要素が必要です。

①の「可燃性物質」に当たるのが、組織構成員個々の実力です。
まったく能力のないメンバーをいくら集めても、組織改革には至りません。ばらばらでもいいから、とにかく個々の構成員にある程度力がなくてはなりません。

②の「酸素」に当たるのが、リーダーシップです。
皆を焚きつけることのできる人物。「この人にいわれると弱いんだよなあ」と皆が思うような人物。複数存在する場合もあります。

③の「発火点(温度)」にあたるのが、きっかけです。
何かのきっかけで、皆の気持ちに火がつけば良いのです。
思わぬ災害や外敵の登場により、組織改革が進むことはよくあります。
私たちコンサルタントの役割はここにあります。このきっかけを、いわば人工的に創り出すことがミッションなのです。
講演や研修という場合もありますし、一緒に仕事をしながら新たな方法を披露する…というのも一つです。
あえて厳しい言葉で駄目だしすることもあります。
プロジェクトを一緒に成し遂げるのもありですね。

組織変革がらみの案件の場合、予備調査の段階で、構成員個々の能力を見極めることができ、活用できるリーダーシップの存在を確認できたならば、あとは私たちの腕次第ということになるわけです。

ふんどしをしめる手に力が入る瞬間です。

2013年4月28日

『鬼平犯科帳』が学校を救う

先日のビジネス雑談サロンでは、埼玉大学教育学部副学部長の細渕教授をお招きし、

「ICT時代の人材教育・能力開発」

と題して、12名のメンバーで雑談を楽しみました。

話題は多岐に及びましたが、概ね、こんな情報交換ができました。

① 大企業の社員教育においては、ICTはかなり積極的に活用されている。単なる知識伝達(財務・法務・英語等)においては、ICTは大活躍。動画も活用されている。しくみだけ作って、後は「やらない奴が悪い」という一種の放任主義がとられている。
② 一方、同じ大企業でも、営業やマネジメント、海外での経験などについては、かなり時間をかけたOJTが計画されている場合が多い。半年、1年、2年といった教育プログラムを持つ会社も少なくない。
③ エリート育成のための手法は①②のとおりだが、コールセンターなどで働くパート・アルバイトの教育研修手法は、大きく異なる。可能な限り、手間暇をかけずに、やる気を引き出しながら、効果を上げる方法が模索されている。
④ たとえば、アプリを使った方法。笑顔が出ない担当者向けに、笑顔チェックできるアプリを自社開発し、それを使って教育をしている。動画教材を作る手間暇を考慮し、読み上げアプリを活用して、従業員向け教材を作成しているという事例もあがった。
⑤ ゆとり教育の対局にある詰め込み教育の是非についても議論があった。国や企業の競争優位を高めるためには、徹底した詰め込み教育と競争の原理が必要だという主張もあった。
⑥ 一方、一定の知識教育は必要だが、上を伸ばすよりも、当たり前のことができるようにしてから社会に出すことこそ重要であるという意見もあった。基本的な数学やマナーが欠如したまま、社会に出てくる人が多いのは問題があるというものである。
⑦ そこから派生し、経済産業省の進める「社会人基礎力」(http://www.meti.go.jp/policy/kisoryoku/)がテーマになった。文科省ではなく、経産省がこのような取り組みをしていることは新鮮。一方で、「スーパーマンのような社会人ではなく、とにかく、挨拶等極基礎的なことができる社会人であれば十分ではないか」という意見も飛び出した。
⑧ 大学における教育学部、つまり、教員育成についての現状についても情報交換が行われた。教育学部に入ってくる学生が最終的に教員になる者が思った以上に少ないことには、メンバーのほとんどが目を丸くした。
⑨ 教員になってもすぐにやめる者が多い。そのほとんどは「教える力」に限界を感じるからではなく、親を始めとする多くの利害関係者との煩わしい人間関係に嫌気がさすというものであった。
⑩ 教育学部の教員の大半は、あくまでも研究者、教育学の専門化であって、学校教育の経験者ではないという問題も指摘された。民間の力だけではなく、学校教育の経験者がもっと大学の教育学部の教員として採用されるべきではないかという意見も飛び出した。

さてさて。
①〜⑧もおもしろかったのですが、私が一番興味をもったのは、⑨⑩あたりの話題でした。

「このままでは学校の先生がいなくなる時代が来るのではないか」

と思うと、ぞっとしました。

大学の教育学部を卒業し、教員試験に合格すれば、そのまま、小中学校の教員として採用されます。
副担任を1〜2年やったら、次の年には、クラス担任。
そうなると、小学校の校長や教頭といえど、そうそう、クラス運営にクチは出せません。非常に大きな裁量が各先生に与えられるわけです。
雑誌社で言えば、編集長のような立場です。雑誌社では、役員といえど、編集にはクチが出せません。編集長の裁量はとても大きいと言いますからね。

40人学級の担任となったとしましょう。
そうなると、40人の子どもとの人間関係だけでなく、間接的には80人の父母との人間関係ももれなくついてきます。

いわば、20大前半の若者が、ろくな経験もないまま、

「合計120人の顧客を任された営業マン」

のような立場に置かれてしまうわけです。
普通の会社では、もうちょっと段階を経て、一定の顧客を任されます。
上司が同行したり、人数は少なめに設定されたりするのが、普通です。

しかし、日本の小中学校では、20代前半で、いきなり、ぽん!と

「合計120人の顧客を任された営業マン」

にさせられてしまうわけです。

ごくごく当たり前だと思っていたこの社会システムこそ、とてつもない非常識的なしくみなのです。

若い教師が強烈な孤独感にさいなまれるのは当たり前でしょう。

最初の保護者会で

「お前みたいな若造にうちの大切な息子を預けられるか」

罵倒されても、平然とできる教師ばかりではないでしょう。
営業現場で同様なことを言われれば、動揺して、あたふたしてしまう若手営業マンのほうが普通でしょう。

最近の学校では、副担任制度が充実していますから、1つの学級でも、形式的には複数の教師で運営しています。しかし、実態は、あくまでも、担任1人制と変わりません。一般的には、副担任はお飾りです。

モンスターペアレントといってしまうと陳腐ですが、今の親はてごわい。私の友人の中にも、

「お、この人、たぶん、モンスターペアレントだろうなあ。この人の子供の担任じゃあなくてよかった」

と思う人は、普通に「山のように」います。

昔から「恋は盲目」といいますが、今の親は(私を含めて)、「教育は盲目」の時代!笑
客観的に自分の子供を眺めることが多すぎますからね。
主観の塊。自分の子供さえよければ構わないという部分最適の守護者
魚をつってあげる事はしても、魚の取り方は教えてあげない即時主義の権化
溺愛は得意だが人生は語らないという短絡的思考の持ち主
私も、私の友人たちも含めて、なかなか及第点をとれる親はいませんね。

にもかかわらず、相対的に親が偉くなったのですよね。
高学歴になり、インターネットでさまざまな情報を瞬時に検索できる親ばかり。
「先生(教師)」の威厳は相対的に小さくなって当然です。

昔は、学校の先生といえば、

「町の名士」

だったはずです。インテリの代表
親の知識ではとても、インテリ代表の先生には太刀打ちできなかった。

しかし、今や、そうではありません。
教師以上のインテリの親御さんがどこの町にもあふれています。

これでは、

「羊に猛獣の群れを率いてみろ」

といっているようなものです。

この状況に対し、学校側もさまざまな手を打っているのでしょうが、なかなか有効には機能していないのでしょうね。

雑サロの議論をファシリテートしながら、私もいろいろなことを考えさせれました。

で、1つひらめいたのは、

「だったら、そういう親たちをもっと活用すべきではないか」

という点でした。

たとえば、過去数年間、モンスターペアレントではあったのだが、その後、学校と和解し、現在の学校教育の問題や若い教師が苦しんでいることをしっかりと認識してくれた親(「モンスターペアレントOB」と呼びましょう)の力を借りてみてはどうでしょうか。

彼らは、学校教育のダメな部分や教師の限界、今時の親たちの主張をよく知っていますし、それを自分たちが学校や教師とぶつかりながらどう理解したり、納得したかというプロセスを経験しています。

それを、次の世代の親たちに伝えてもらう機会を設けてはどうでしょうか。

具体的にはこうです。

① 学校がモンスターペアレントOBを組織化し、一定の教育を施す。
② クラス運営には、担任教師・副担任教師の他に、保護者調整役として、モンスターペアレントOBに就任してもらう。
③ 担任・副担任は子どもたちに「教えること」に専念してもらい、口うるさい保護者への担当は、保護者調整役が一手に引き受け、問題解決にあたる。
④ 担任・副担任・保護者調整役が話し合いながら、学級全体の運営にあたる。

こんな流れです。

子供への教育と保護者調整の分業化。いわば、

「教調分業」

です。

「モンスターペアレントOB」の活用という発想の源流は、池波正太郎の『鬼平犯科帳』にあります。

火付盗賊改方の長官・長谷川平蔵は、若い時分に随分と悪いことをやってきた人物です。

「悪を知らずして、悪を取り締まれるか!」

というのが、彼の強みであり、だからこそ、高い検挙率を誇ることができたわけです。

教育の現場もいっしょです。

「モンスターペアレントOB」を児童・生徒の卒業とともに終わらせてしまってはもったいないです。
こういう「経験者」の持つ知識と経験を、教育の現場で活かすべきではないかと思います。

「民間の活用」

というと、

① 民間企業の経営者が校長先生に就任する
② 民間企業の関係者が一部講義を担当する

といった方法ばかりがクローズアップされますが、私は

「それだけじゃないんじゃないか?」

と思います。

さきほどの「モンスターペアレントOB」を学校で採用するという方法はやや行き過ぎたアイディアです。
しかし、毎年の新入生の保護者会に、あるいは、保護者総会に、モンスターペアレントOBの方々に来ていただき、

「いやいや、お母さんがたのご意見は私達もわかりますがね、学校側にもこういう事情があるんですよ。ですからね、折衷案として◯◯◯してはどうですか? 私達も随分と学校とぶつかりながら、こんな結論になったんですよ」

と、話してもらうだけでも、校長や教頭が汗をハンカチでふきながら、

「誠に遺憾に感じております。学校としても善処し、再発防止策を講じる所存であります」

と頭を下げるよりも、はるかに説得力があると思います。

小児科における医療訴訟がブームとなり、何でもかんでも訴訟にするのが当たり前になったため、小児科になりたがる医師が少なくなりました。そのため、出産したくても、医師がいない…という社会問題が起きました。
社会全体が「近視眼的マーケティング(マーケティング・マイオピア)」に陥ると、社会はどんどん弱体化していきます。
いつの世も、即時的・短期的・短絡的な問題解決は社会をダメにするのです。
小児科業界で起きた現象を学校教育の現場で再現する愚は犯したくないものです。

「モンスターペアレントOB」の活用は、私がよくお話している「猫の手環境の活用(猫の手戦略)」の1つです。
しかも、「モンスターペアレントOB」は、わが国に無尽蔵に存在する資源です(しかも、毎年、黙っていても新たに生成されるのですからね。すごいですよ)。
使わないのは、もったいないと思うのですが。

あ、私もその一人か。
母校の「後輩モンスターペアレント」へのアドバイスくらい、勝手でなきゃあいけないかなあ。
誰でもできる地域貢献の1つですよね。

お、この考え方は、うまく活用すると、社会人教育の世界でも使えるかもしれないなあ。
GWにもう少し考えてみよう。

2013年4月28日

オープン・コマース・ネットワークとは何か

クライアント各社の新入社員研修が一斉にスタート。
今年は3社を担当する。
若い世代との情報交換は非常に興味深い。

意外だったのが、彼らが実名型SNS(【例】Facebook)について思った以上に消極的な参加に留まっている点である。
新入社員世代の皆さんにとって、実名型SNSは、

「就職活動でおなじみの手法」

にはなったものの、それ以外の使い方にはまだまだ消極的であり、限定的な利用に留めている方が大半である。

「竹永さんは、ビジネスでSNSを使っていらっしゃるんですよね」

「そうですよ。いろいろな広がりがあって実に重宝しています」

「トラブルとか、ないですか?」

「…??」

なるほど。
話を聞いてみると、彼らの不安の1つは実名型SNSにまつわる様々な人間関係上のトラブルにある。

SNSを通じて知り合って暫くの間は普通の友達であったのに、先方が、何かのきっかけで、ベンチャー・ビジネスを始めた途端に、勧誘のメッセージばかりが来るようになる。
無視すれば、相手の機嫌を損ねるし、拒否すれば、逆切れされる…

「社会人の方々の間にもトラブルはけっこう多いと聞いています」

「なんかあると、人間関係が壊れちゃうし。怖くて使えないですよ」

「竹永さんには2,400人のお友達がいらっしゃるが、そういう方と友だちになるのはむしろ不安。竹永さんのお友達から勧誘されたら断りにくいですし。もちろん、大半はすばらしいお友達だと思うのですが…」

なるほど。
耳の痛い話である。
彼らが私と友だちになりたがらない理由は、ジェネレーション・ギャップだけではなかったのだ。
私達「オトナ世代」のSNSの使い方を見て、

「脇が甘い」

というご批判である。

たしかにそうかも知れない。

そもそも、SNSはビジネスを成功させるためのコミュニケーション・ツールの1つに過ぎず、ビジネス成功のための絶対的な必要要件でもないし、成功の鍵ですらない。
広告か、パブリシティか、各種SP(セールス・プロモーション)か、人的販売(営業活動)か、それともSNSか…といった販売促進の手法上の1つの選択肢にすぎない。

若い世代に指摘されるまでもなく、計画性も戦略性も持たないまま、闇雲にSNSを使って営業活動を行なってもうまくいくわけがない。
そういう方は、通常のプロモーション活動・営業活動もうまくいかないだろう。

「私は飛び込み営業は全然だめなんですが、実名型SNSだといくらでも集客できるんです」

という方は稀である。
逆に、飛び込み営業が得意な人は、SNSを使ってもうまく顧客を増やすことができる。

結果として、リアルな営業がうまくできない方の駆け込み寺のようにSNSが扱われるようになったために、SNSを活用した営業はかなり歪んだ形で進化してしまった。
いわゆる「営業ごっこ」現象である。

SNSで知り合った人脈により、

「営業ごっこ」

が行われている事例はまま目にする光景である。

「SNSを通じて、A氏とB氏が知り合った。A氏がB氏にサービスを提供し、対価を受け取り、しばらくすると、B氏がA氏にサービスを提供し、対価を受け取る…という構図である」

A氏もB氏も売上は上がるが、「バーター」だから、相手への支払でチャラ。
双方とも、正味の財産の増加にはつながらない。
内輪で売上が上がるから、外に向けての営業は本当は必要だと思っていても、見て見ぬふりをしてしまう。
仲間内での仕事の回し合いなので、お互い、市場全体で最高にクオリティの高いサービスを選択しているとはいえない。お互いに「割高」な買物をしあっていることになり、市場全体でみた場合に、各々の構成員の競争力は弱体化していく。
中世ヨーロッパの「ギルド」、中世日本の「座」と似たような社会システムである。

もう少し複雑な関係で見てみよう。

SNSを通じて、A氏・B氏・C氏・D氏・E氏が知り合った。A氏がB氏にサービスを提供し、対価を受け取り、しばらくすると、B氏がC氏にサービスを提供し、対価を受け取り、しばらくすると、C氏がD氏にサービスを提供し、対価を受け取り、しばらくすると、D氏がE氏にサービスを提供し、対価を受け取り、しばらくすると、E氏がA氏にサービスを提供し、対価を受け取る」

…という構図である。

この場合も、結局のところ、いっしょである。
「営業ごっこ」の域を出ない。

この話は時々、友人のコンサルタント仲間との飲み会での話題になる。
2人で「本当にこのままでいいのか」と憂いてしまう。

営業ごっこというのはいささか垢抜けないので、もう少しスマートに表現してみよう。

売上循環モデル」
「閉じた売上モデル」

というべきかもしれない。
横文字で表現すれば、

「クローズド・コマース・ネットワーク(CCN)」

という表現がしっくり来る。

個々の構成員の売上は立つものの、ネットワーク全体での正味の財産はまったく増加していない。

親会社が子会社に出資し、子会社が親会社に出資する…というしくみを、わが国の会社法は厳しく規制している。見かけ上、親子会社の資本金が増えるだけの「資本の空洞化」につながるからである。

「クローズド・コマース・ネットワーク(CCN)」

「資本の空洞化」とよく似ている。中身がないのだ。

いい大人が、CCNをもって、社会人一年生に、

「SNSはすばらしいよ。ビジネスの輪が広がるよ」

といっても、まるで説得力はない。

リンダ・グラットンの著書『ワーク・シフトー孤独と貧困から自由になる働き方の未来図〈2025〉』によれば、これからは、

「協業」

の時代であるという。

彼女の説く協業を、私流に解釈すれば、

「地理的・物理的に離れたところにいる人間同士が、SNSあるいはそれに変わるしくみを介して、有機的に結合し、国境を超えたさまざまな問題に対し、能動的に解決しようとすること」

である。

SNSあるいはそれにかわるネットワークを通じて、ネットワークの外に向けて、大きな付加価値を作り上げていこうという気概が感じられるすばらしい言葉である。

ネットワークにおいて大切なのは、「協業」であり、その基本姿勢は、「外向き志向」「正味の財産の増大」の2点だろう。

私は自らが主催する「ビジネス雑談サロン(雑サロ)」を知的交流の場と位置づけ、ここで知り得たこと、ここで学んだこと、ここで気づいたことを、参加者各々のビジネスで自由に利用していただきたいと考えている。
主催者である私が株式会社に所属する以上、一定の制約を設けていることは否めないが、弊社の直接的な利益というのは後回しにして、とにかくたくさんの知的交流が生まれることに重きをおいている。

この考え方は、いつもお世話になっている千種伸彰氏が主催する「名著を読む会」から学んだものであり、同会の方針は今も変わっていない。すばらしい方針である。だから毎月可能な限り、同会には出席するように心がけている。

蓄積された付加価値は、少なくとも私の場合、ネットワークの外側で「マネタイズ」するようにしている(「外向き志向」)。

具体的には、
① 雑サロで学んだことは、弊社の商品(コンサルティング・スキル、講演・セミナーのテーマ・素材)としてダイレクトに活用している。
② 雑サロに参加してくださった既存顧客やパートナー企業の構成員の方々には知的サービスをプレゼントすることで、最上級のおもてなしをすることにつながっている(これが、構成員の方々が所属する組織との次の商談につながっている)。

一見、金銭の授受がまったくない「雑サロ」により、正味の財産の増大」につながっているのだから、不思議といえば不思議だ。

儲かっているのは弊社だけではない。
今や、メンバー間における「協業」が至る所で生まれ、参加者各々の「賞味の財産の増大」にも貢献している。

見込客企業やパートナー候補企業の構成員の方々は、雑サロに参加して、私や私のネットワークを見ながら、自らの所属する組織と弊社とが契約を結ぶべきかどうかの判断材料として使ってくださっている。
相性があえば、弊社と契約を結んで下さる場合も少なくはない。

いずれにしても、このつきあいかたは

「クローズド・コマース・ネットワーク(CCN)」

ではない。

ネットワークの外側に顧客が生まれるように、商談や売上が外へ外へと広がっていくように、常に、メンバー全員で、風向きを調整しているのかもしれない。

めざすべきは、

「オープン・コマース・ネットワーク(OCN)」

である。

株式会社としての限界があると申し上げたのは、弊社と直接競合するビジネスが派生した場合には、一定のマージンをいただくことにしているためである。
しかし、弊社の定款にまったく抵触しない形でのビジネスの輪が広がることは諸手を上げて大歓迎。勝手にやってちょうだいよ…というのが基本方針である。
その蓄積がネットワーク全体の存在価値を高めるからである。

お陰様で、次々と、連鎖的に、ビジネスの輪が広がっている。
そのほとんどは、ネットワークの外に向けてのビジネスであり、構成員間での直接の契約、金銭の授受というのはゼロではないものの、多くはない。

誤解のないように申し上げておくと、私は、

「クローズド・コマース・ネットワーク(CCN)」

を否定しているわけではない。

私自身、必要に応じて、誰かに個人的に仕事を依頼し、対価を支払う場合はある。
しかし、これが「主」になることはない。「従」であるべきだろう。

「主」はあくまでも、

「オープン・コマース・ネットワーク(OCN)」

でなくてはならない。
CCN1に対し、OCN10くらいの割合でなければ、ネットワークの存在価値はない(「営業ごっこ」に終わってしまう)。

SNSを通じて、A氏とB氏が知り合った。A氏とB氏が議論を尽くし、あるサービスを生み出した。それをB氏の所属するX社に提案した。そのサービスはX社の弱みを改善しうるものだったので、商談は成立。一定の対価をA氏に支払ってくれた(B氏はX社の構成員だったので無報酬)」

SNSを通じて、A氏とB氏が知り合った。A氏とB氏が議論を尽くし、あるサービスを生み出した。それをB氏のクライアントするX社に提案した。そのサービスはX社の弱みを改善しうるものだったので、商談は成立。一定の対価を2人に支払ってくれた。それを2人で貢献度合に応じて分割した」

SNSを通じて、A氏・B氏・C氏・D氏・E氏が知り合った。A氏とB氏とC氏とD氏とE氏が議論を尽くし、あるサービスを生み出した。それをE氏のつてで、外部のX社に営業に行った。そのサービスはX社の弱みを改善しうるものだったので、商談は成立。一定の対価をE氏に支払ってくれた。それを5人で貢献度合に応じて分割した」

理想はこうではないかと思う。

昨日も今日も、「雑サロ」がご縁でつながっているメンバーとの仕事が続くが、我々の報酬はネットワークの外側から頂戴するものである。

SNSがビジネスに活用できる…と胸を張って豪語するためには、

「オープン・コマース・ネットワーク(OCN)」

の構築が大前提となる。

来週、また多くの新入社員の方々と話をする機会に恵まれている。
昼休みにでも、本稿の内容を素材に、彼らとディスカッションできれば、幸いである。

2013年4月13日

線引困難化の時代

先日の企業研修の際に受講された社員の方から、

「情報配信の重要性はわかりますが、仕事に関する情報をタダで発信したのでは、コンサルタント業は成立しないのではないですか?」

という質問をいただいた。
この質問。
実はよく頂く。

これについては、やはり、

「一定の線引」

が必要である。

① 本業に直結するアイディアや手法については公開しない
② 本業に間接的につながるアイディアや情報は無料で公開する
③ 販売促進につながる情報の場合、①に該当するものであっても一部公開する

私の場合、概ねこのような感じで区分けしている。
①③については当然のことながら、②については、

「本業以外のことについてもこれだけ詳しい方であれば、本業はもっと凄いノウハウを持っていて下さるのではないか」

と、潜在的な顧客に思っていただけることを期待しての判断である。

すべてのノウハウと情報を無料で公開してしまっては、有料で私の話を聞きに来てくださったり、私のコンサルティングを受けて下さる方に対し申し訳ない。

もっとも個々の知識やノウハウそのものにそれほど大きな価値のない時代にもなっている。
個別の知識やノウハウを後生大事にかかえていても、競合者の誰かが公開してしまえば、無価値なものになってしまう。
無価値になるくらいなら、「自分が公開した」という実績を「買った」ほうが得な場合も多い。
このあたりは、株の売買によくにているかもしれない。
暴落することがわかっているのなら、早めに売っちゃいなさい…ということである。

個別の知識やノウハウを評価する「JIS規格」(個別規格)のような評価基準よりも、継続的に知識やノウハウを生み出し続けることができることを評価する「ISO規格」(システム規格)のような評価基準が大切にされる時代なのだ。

何事にも線引は重要である。

たとえば、クライアントに知人を紹介する場合を考えてみよう。

現在、私がリアルに仕事をしている方はいずれもがその道の

「プロ(玄人)」

である(少なくとも私はそう思って、契約書を交わし、やりとりをさせていただいている)。
間違いなく、信頼している方を選んで仕事をしている。

何らかの御縁で、クライアントに人材を紹介する場合にも、

「なんとなくすごい人」
「話していて楽しい人」
「飲みに行くと盛り上がる人」

だけでは紹介しない。

大切なクライアントに人材を紹介するなら、

「その道のプロ」

に限定している(プライベートなつきあいは別である。「楽しければよい」と思うことも多々ある)。

「竹永さん、今度、私のこと、紹介してくださいよ」

といくら頼まれても、

「その道のプロ」

でなければ、頑として紹介しない。
いつもにこにこと

「そのうちね」

とかわすだけである。

研修ディレクターや営業担当者の皆さん、人事部の部課長の方々、営業本部の本部長やマネジャー諸氏、商品プロモーション部門のぶ課長の面々、そして、同業の経営コンサルタントのお歴々。

今、仕事上、親しくお付き合いしている方は、すべて、自信をもって、

「この人はプロだ」

という方々ばかりだと思う。
中には、他の仕事や業界に移られて、私との縁が残念ながら遠くなってしまう方もいらっしゃる。
そういう方とは、お会いする度に、メールを打つ度に、飲みに行く度に、

「また、この業界に戻ってきてください。いっしょにまた一花咲かせましょうよ」

「未練タラタラに」お誘いすることにしている笑。

まるで池波正太郎の世界。
『鬼平犯科帳』で足を洗った名人芸を持つ元盗人に、「おつとめ(盗み)」を誘う昔の仲間のようである。
おっと、尊敬するビジネス・パートナーの皆様を盗人に例えるのはまずかった。
こりゃ失礼!m(__)m

さてさて。

いずれもが、これらのパートナーの皆様全員が、

「竹永セレクト」

であり、同時にこれらの方々に

「セレクトされた竹永」

でもあると信じたい。

「その道のプロだけを紹介する」

とは、言い換えれば、

「素人感覚の友人は紹介しない」

ということである。

私自身と仕事をするなら、パートナーは素人感覚の方であってもかまわない。私がそのことをわきまえていればよい話であるし、㈱経営教育総合研究所にも迷惑をかけるようなつきあいかたはしない。

しかし、そういった方々をプロとして自らのクライアントに紹介することは現に慎まななければならない。

① 後々、当事者の素人感覚がクライアントに迷惑をかけること
② 結果として、私の人選に狂いがあったという烙印を押されること

が、火を見るよりもあきらかだからである。
私に法的な責任はなくとも、道義的な責任は間違いなく追求されるだろう。

ここでいう

「素人感覚の持ち主」

というのは、

① 報酬や条件、時間的期限にこだわりがなく、なあなあで仕事する方
② 目標意識がなく、なんとなく惰性で仕事をしている方
③ 自分のペースで仕事をすることを優先し、クライアントのニーズ・視点・ペースに興味を持てない方
④ 専門知識が乏しい方、昔とった杵柄のような知識と情報にしがみついている方(要するに勉強しない方)
⑤ 評論は得意だが、成果を出せない人、実務能力のない方

である。
ドラッカーが、『マネジメント』の中で「真摯さ」はマネジメントの重要な資質(しかも、唯一の先天的資質)だと主張しているが、①〜⑤は、ドラッカーのいう「真摯さ」の対局にある資質である。

こういう書き込みは、常に自戒の意味を持って行うことにしているのだが、

「竹永さんも口だけだな」

と後ろ指をさされないように、今後もプロ意識を持って仕事をしたいと思う。

カリスマ税理士の冨永英里氏と(確か初めてお会いした時だったと記憶しているが)お話したときに、彼女と、

「SNS経由での顧客や仕事の紹介については細心の注意を払うべきではないか」

という議題で盛り上がったのを覚えている。
当時は私もまだSNS初心者であり、頭でわかっていても体感するまでには至っていなかった。
1年半が過ぎ、そのことが今では体感的にわかるようになった。
友人と顧客、クライアントとパートナーの関係が複雑になるにつれ、トラブルに対する完全な自衛は不可能だとも思うが、

「一定の線引」

を行い、そのことを関係者に暗黙的に、あるいは、明示的に知らしめることが肝要だと思う。

【例】飲み会の際に盛り上がっていても、ひょいと真顔になって「ただ、契約だけはちゃんと文書でお願いね。以上〜〜〜〜」といって、再びまた盛り上がり状態に戻る(暗黙的な示し方)、「念のためメール送っておいてください。形式的なものだけどね」といって、口頭での約束は避ける(明示的な示し方)

先日お会いしたあるメーカーの人事担当の方が、

「友達の友達だというから信頼して仕事(研修)をお願いしたら、えらく適当にやられてしまった。後から抗議したら、『こっちは頼まれたからやっただけだ。だったら報酬はけっこうです』とつっかえされたことがある。二度と、情実で人選をするまいと心に誓った」

とおっしゃっていた(すでに時間が経過してしまい、笑い話として紹介してくれたのだが)が、これは、

「一定の線引」

の難しさと必要性両方を物語っている恒例だろう。

同業のコンサルタント会社のあるマネジャーの方は、

「最近はWebでの仕事が沢山舞い込んでくるようになった」

とおっしゃるので、

「羨ましい限りですね」

とお伝えすると、

そうでもないのです。申込者は法人もいれば、個人もいる。要求レベルや条件も千差万別。先方の財務的な背景もわからないから、仕事を受けていいかどうか、判断が難しい。結局、一度は会って、話を進めるということになりますよ」

と、話してくださった。

与信管理を徹底すればよいではないか…といわれるかもしれないが、法人格を持たない団体や個人の場合、入手できる情報には限界がある。支払能力の問題のみならず、たとえば、相手が反社会的勢力に与しているリスクなども考えると、事は簡単ではない。

これもまた、

「線引困難化の時代」

を象徴するエピソードである。

情報の選別。
紹介の選別。
顧客の選別。

「一定の線引」の必要性が増しつつも、難しさも増しつつある時代である。
一見すると、デジタルな情報があふれているから、線引しやすい時代だと思うのだが、SNSやICTの発達により、情実・義理が生まれ、線引しにくくなっている時代と見ることもできる。
難しい意思決定が要求される。

2013年4月7日

気仙沼復興支援ツアーへの参加 〜「拝聴と対話」〜 その2

「どんな新しい街になっていくのかと思えば、結局は、観光と水産の街をめざすという。これでは何もかわらないではないですか。がっかりです」

パワーショベルが街の其処此処で目にできるようになり、かさ上げも始まった。
震災から2年が経過し、見た目には、復興に向けて少しずつ動き出したかのように見える宮城県気仙沼市

しかし。
現地の経営者の声を「拝聴」すると、その先行きは、必ずしも明るくない。

「どんな街になるかと思っていたんですがね。結局は元の木阿弥。元通りになろう…ということしか決まらないのです」

未曾有の大震災はたくさんのものを奪った。
多くの人を傷つけた。

それでも、ゼロからのスタートを切れることで、本来ならいろいろなことにチャレンジすることもできる千載一遇の機会でもあった。
事実、そのように考えていた地元の経営者の方も多いのだ。

大空襲で焼け野原になった戦後の東京。
それゆえに、ゼロスタートを切ることができた。
マイナスをバネにして、私たちの父母が死に物狂いで働いてくれたたために、世界第2の経済大国に上り詰めることができた。

震災の後。
東北を始めとする被災地にも、マイナスを吹き飛ばすロケット・スタートを切っていただきたいと願っていた。

ところが。
蓋を開けてみれば「元の木阿弥」
落胆の声が広がりかねない状況にある。

なぜ、このようなことになってしまったのだろうか。
1年ぶりに気仙沼を訪問してみて、千葉淳也氏(マサキ食品社長)の話を伺いながら、一番考えさせられたのは、この問題だった。

現在のところ、私には、一番の原因は、

「合議制による復興」

にあるのではないかと思えてならない。

飛行機や船で緊急事態が起きれば、機長・船長は大きな権限を持つ。
いつもは優しいキャビン・アテンダントのお姉さんでさえ、厳しい顔に変わり、乗客に「指示」「命令」を下すようになる。
助かるためには、「独裁」が必要なのだ。
緊急事態には、合議制が役に立たなくなることを私たちは肌で知っているのだ。

にも拘わらず、震災の度に、有事の度に、

「合議制による復興」

が延々と繰り返される。

戦後長らく続いた自民党政権に絶縁状を突きつけ、素人同然の民主党政権のお試し運転中に大災害が起きたことも、不幸に拍車をかけた。

「何も決まらない」

東日本大震災復興基本法24条に復興庁設置の基本方針が規定され、2011年12月に復興庁設置法が成立したものの、実際に復興庁がスタートしたのは、翌2012年2月1日である。震災から11ヶ月。
遅きに失するとは、まさにこのことである。
その復興庁はどの程度の権限を持ち、どの程度のリーダーシップを発揮しているのだろうか。
目に見える成果を感じることはできない(一生懸命お仕事されている公務員の方には頭が下がる思い出し、感謝申し上げるが)。

合議制で何かを進めれば、何といっても

「迅速性」

が損なわれる。

「この際、時間ダイヤモンドよりも貴重

であるにも拘わらず…である。

また、合議制で進めれば、

「被災直前の利害関係の復活」

に必ず結論が向いてしまう。
多数決を繰り返すのだから、

「被災直前の利害関係の復活」

の方向に収束するのは当然である。

これでは、被災というマイナスをバネにして、数少ない長所であるゼロスタートだからこそできるドラスティックなロケットスタートを切ることはできない。
迅速性が損なわれ、元の利害関係の復活が優先される合議制の採用を見直す必要がある。

たとえば、こんな方法は選択できなかったのだろうか。

(1) 未曾有の震災(一定の規定に基づき認定)が発生した場合には、被災地に対し強力な権限を持つ総督(被災から2週間以内等、首相が任命)が派遣される

(2) 総督の権限は被災地の復興に関する事項に関しては、各省・国務大臣の権限を上回るものとする。

(3) 被災地にいる基礎自治体(市区町村)の首長は、総督の許可をとれば、自由に各自治体の復興を進めてよい(その間、各省に許認可を得る必要はない)。一定の事項(法律で事前に決めておく)については、議会の承認も、広域自治体(都道府県)の許認可も不要。

(4) 個人の所有権については法が定める一定期間は凍結。総督の判断により「公共の福祉」が優先される

いわば、「定時定地独裁制」の導入である。

総督個人の力量にすべてを委ねるのは危険だ…という意見があることは重々承知している。
だが、そういう方は、飛行機が墜落しようとしているとき、機長に一任しないのだろうか。
そんなことはあるまい。

共和制ローマでも、非常時においては、独裁官を設置していた。
むろん、これが行き過ぎた結果、カエサルやアウグストゥスの台頭を招き、帝政に移行するわけだが、それを抑制する方法は現代であればいくらでもあるだろう(たとえば、総督の権限は軍事には終身及ばない、任期満了後は国政への参加はできない 等)。

基礎自治体の首長を毎回選挙の際に、2人設けておいてもよいかもしれない。

(1) 首長
 平時の政治を担当する首長

(2) 有事担当特任首長
 法律で定める一定の有事が起こった場合に、市長に代わって一定期間復興行政を担当する首長

平時に波風立てずに政治を行える人物(首長)と、有事に強力なリーダーシップを発揮して被害を最小限に留めることができる人物(有事担当特任首長)の資質は異なるからである。

これは、革命家と政治家の資質が異なるのと似ている。
坂本龍馬は自らを革命家と認識していたからこそ「船中八策」には自らの名前を残さなかった。政治家ではなく、商社マンをめざしたのだ。
ロベスピエールは、フランス革命の主役のひとりとして歴史にその名を残すが、革命後は恐怖政治を断行し、処刑されている。

「治世の能臣」「乱世の奸雄」は異なると考えるのが正しい物の見方かもしれない。

というわけで、先ほどの私案を修正してみよう。

(1) 未曾有の震災(一定の規定に基づき認定)が発生した場合には、被災地に対し強力な権限を持つ総督(被災から2週間以内等、首相が任命)が派遣される

(2) 総督の権限は被災地の復興に関する事項に関しては、各省・国務大臣の権限を上回るものとする。

(3) 被災地にいる基礎自治体(市区町村)の首長は、予め選挙で選出されたいた有事担当特任首長に指揮権を譲渡する

(4) 各基礎自治体の有事担当特任首長は、総督の許可をとれば、自由に各自治体の復興を進めてよい(その間、各省に許認可を得る必要はない)。一定の事項(法律で事前に決めておく)については、議会の承認も、広域自治体(都道府県)の許認可も不要。

(5) 個人の所有権については法が定める一定期間は凍結。総督と有事担当特任首長の判断により「公共の福祉」が優先される

これにより、最大限重要な案件であっても、

(1) 内閣総理大臣
(2) 総督
(3) 有事担当特任首長

の3つの印鑑があれば、何でもロケット・スタートを切ることができる。

当然、行き過ぎた行政判断がなされる場合もあるだろうから、一定期間(10年、20年等、法律で定める)経過後に、ある程度の

「損害賠償」

を認める制度を設けるべきかもしれない。
どの道、全員が得をするという復興計画はありえないのだから、ここは目をつぶる。
とにかく、スタートしてみて、後から修正するというグランド・デザインで物事を進めるべきであろう。

私は法律や行政の専門家ではないから、ここに記したアイディアは、

「穴だらけ」

であることは認める(当然だと思う)。

しかし、合議制によって得られる被災地全体の期待値が100だとすれば、上記のような定期定地独裁制によって得られる期待値がどれくらいのものになるのか、平時のうちに試算しておいていただきたい。
80や90に留まるなら採用しなくてもよいが、たとえ、110や130になるのならば、採用を考えてもよいのではないか。

定地定時独裁制の採用が危険だというのであれば、合議制と定地定時独裁制との折衷案も考えられる。

(1) 被災地の復興行政に関する意思決定は、一定期間は合議制に基づき議論するが、決まらない場合には、総督や有事担当特任首長に一任する

(2) 被災した基礎自治体毎に、①従来首長の指揮下での合議制の維持、②定地定時独裁制への全面移行、③(1)であげたような折衷案の採用、を選択する

今更ながら、被災地におけるどの自治体も右往左往の連続で「迅速性」という最も大切な要素が損なわれて2年が経過したことが残念でならない。
念の為に申し上げておくが、これは各自治体の責任ではなく、国と私達国民の責任なのだ。

「有事において、平時と同じ制度を用いる」

ことが、すでに大きな間違いであるのだ。
飛行機の中で、エアポケットに入り、ヒヤリとする度に、どうか、このことを思い出していただきたい。
飛行機の中で何かあれば、合議制では誰も助からない。

2013年4月2日

気仙沼復興支援ツアーへの参加 〜「拝聴と対話」〜

千種伸彰氏が主催する気仙沼復興支援ツアーに1年ぶりに参加。
今回のテーマは「拝聴と対話」



「復興豆腐」
マサキ食品を再訪し、千葉淳也社長にも再会することができた。

 

 

お元気そうで何より。新製品の「幸せのおからドーナツ」は連日完売という。

わずか1年の間に気仙沼は大きく変わり始めていた。
被災物が除去されたものの静寂に満ちた更地だけが目立った昨年3月とは大きく様相が異なる。
至る所で重機がフル稼働し、一部ではかさ上げが始まっていた。
港周辺のかさ上げだけでも面積的には120ヘクタール、必要な土は70万㎥に及ぶ。
これをわずか1〜2年で盛りつけてしまうというから、現代の土木技術のレベルの高さに驚かされる。

一方で、仮設商店街の移転問題、仮設住宅の期限問題等、最初からわかっていたこととはいえ、これまで目を向けて来なかった問題が顕在化。
被災地は再び大きな転機を迎えている。

 

視察の中で印象的だったのは、マスコミでも大きく報じられた第十八共徳丸
撤去直前。実物を見ることができた。
全長60メートル。排水量330トン。
海岸から600メートルも内陸にこれだけの質量の物体が移動してきたということだけでも、津波のエネルギーの凄まじさにぞっとする。

「保存すべきか、撤去すべきか。それが問題だ」

この震災の「遺跡」をどう扱うかについては、地元・気仙沼でも大きな議論になった。
住民のほとんどは「撤去してほしい」という意見だという。
一方で、観光資源になりうる(経済的効果が見込める)、震災の記憶を後世に伝える役割を担える(社会的意義がある)といった理由で、保存を望む声をあったという。

ツアー参加者の中でもこれについては意見が大きく別れた。酒を飲みながら、激論を交わした。

保存派が多い中で、私見は「撤去」である。理由はいろいろあるが、一番は、被災された現地の声を最優先すべきだということである。

経済効果や社会的意義を主張する面々の気持ちもわかる。その上で、現地の声を重んじるべきだという結論である。

性犯罪にあった女性が精神的に大きなダメージを受けている時に、

「あなたがこのような犯罪に巻き込まれたことについては遺憾に思います。しかし、このような犯罪が二度と起きないように、手記を発表しませんか」

と説得する輩がいれば、非常識との謗りを免れることはできないだろう。

海を正視することができない、丘に打ち上げられた船を見ただけで動悸がしてしまう… このような住民がまだまだ多数いる現在、船の撤去は遅すぎる意思決定だったと思えてならない。

卑近な例で恐縮だが、十数年前に父が亡くなった時に、遺産(僅かではあったが)を母と弟と分割するにあたり、我々は母の取り分を重視した。
竹永家全体で考えた場合、合理的なのは、母の取り分を少なくし、我々兄弟の取り分を多くする方法である。
しかし、我々は、「非合理的な方法」を選択した。これから我々兄弟も何があるかわからない。
年老いた母を守るのは(場合によっては、我々息子たちから)、「お金」である。よって、母の取り分を多くすることが非合理的な方法ながら、最良の方法であると決断した。
非合理的な意思決定が必要な場合というのが、必ずあると思う(最近は税理士の友達が多いから、「もっといい方法があったわよ」といわれるかもしれないが、それは置いておいてください)。

第十八共徳丸の場合もいっしょではないだろうか。
中長期的にみれば、経済的・社会的にみれば、住民感情を最優先すれば、「保存」という選択肢が合理的なのかもしれない。
しかし、今は非合理的な方法であっても、「撤去」を選択すべきではないだろうか。
今回の気仙沼市を始めとする関係者の意思決定を私は支持したいと思う。

一方、今回のツアーでは、APF通信やフジテレビ等で活躍されているジャーナリストの方々と情報交換することができた。

「保存すべきです」
「目を背けてはいけない」
「大衆が目を背けたくなる事実をえぐり出し、それを晒すことが我々の役割です」

彼らの意見は概ね保存を肯定するものであった。
これも大切な社会的機能であると思う。
何でもかんでも目を背けてしまい、臭いものに蓋をしてしまうような社会は健全なものではない。
ジャーナリズムの意義は十分に尊重したい。
えぐり出す義務と権利、さらす義務と権利。
大切である。

それでも。
その対極には、目を背ける権利というものもあるだろう。
全員が全員、いっせいにさらされた現実を見つめなければならないというものではない。
そこには、個人差が認められてしかるべきである。

教育の世界でも「個別対応」が重視される時代だが、同様に、震災に対する個人の受け止め方にも個人差が認められてしかるべきであろう。
同じ1人の人間の中でも、震災直後、1年後、2年後、3年後、5年後、10年後… 受け止め方は変わる。
目を背けていた人がそれを直視できるようになる時期もやってくることだろう。
震災風化を防ぐためには、特効薬だけでなく、漢方薬も必要なのだ。

震災の象徴は確かにあったほうが、後世に歴史を伝えやすいかもしれないが、代替案がまったくないわけではない。いろいろ考えを巡らすことが大切であろう。

阪神淡路大震災の場合、原爆ドームや第十八共徳丸にあたる目に見える象徴」はなかったと思う。
それでも、ドミノのように倒れた高速道路を始めとして、忘れえぬ映像は多数残っている。
ツアー参加者のおひとりがおっしゃっていたが、デジタルの時代ゆえ、たくさんの情報を劣化するなく伝えることができるのだから、さまざまな形での情報発信を続けていくことこそが大切なのだろう。
ハードな情報、ソフトな情報、プラスの情報、マイナスの情報、ダイレクトな情報、オブラートに包まれた情報。
そのいわば「情報アラカルト」を、被災地の方々と、国や政府と、ジャーナリズムに携わる方々と、そして、国民一人ひとりが作り上げる過程に携わるべきなのだ。

打ち上げられた船だけが震災の記憶の風化を防ぐ道具ではない。
撤去が決まった第十八共徳丸に変わる代替案を皆で考えていこう。

2013年4月1日